フィルムスタディーズ

二年前の映画の講義で、「映画は物理的リアリティを救済し、いくら手を加えてもありのままを映す」という先生の主張(ぼんやりしか覚えてないがこんな感じだった)に疑問を抱き反論までしていたのだけど、今日受けた別の先生の講義で「写真生成の過程に人間は介入するに過ぎない」ということを学んでようやく二年前のことが分かった気がした。



クラカウアーによれば、映画は写真のテクノロジーと同様、事物を非選択的に記録するもので、映画はとりわけ物理的リアリティの救済(=キャメラの前に存在する事物を非選択的に記録するので、私たちが普段あまりに身近すぎてかえって意識することができない世界の再発見を可能にすること)を促進させるメディアである。

この主張における非選択性とは、あくまでも映画の属性であり、どんなに統制された映画であってもその属性があるがために統制下から逃れ去るという意味である。


二年前の私は、非選択性は認めるが、それが統制性、人工性よりも重きが置かれるとは思わないとと主張していた。
つまり、たしかに何の感情、思考を持たずただ淡々と前に在るものを見物するキャメラを通せば、人間がいくら統制してもしきれず非選択的になるのは間違いない。しかし、映画は人間がそれをつくろうとする意志があるからこそ存在するもので、キャメラが見物できるのも人間の手によってであり、映画は自然的でなく人工物である以上、物理的リアリティをそのまま救済するとは考えられない。あるいは救済しえても、非選択的になろうとも、映画という人工物の突き進む道には支障を来たさず、むしろ映画にみえる物理的リアリティは現実界を素材にする以上それは当たり前で承知のものだと考えていた。


馬鹿すぎるし論点がずれていて恥ずかしい。



今日学んだことのように、映画というものは物理的リアリティの救済を免れ得ず、人間は撮影・制作において介入するに過ぎないということを先生は言いたかったのだと思う。


しかし私の苦し紛れの横暴な主張
―ある映画では、森という自然の中、それに登場し、キャメラによって見物された大きな岩の上に散らばる落ち葉は最初からそのような配置にあったのではなく人間により統制されたものであった。このように自然的で物理的リアリティと思われたものであっても、映画は人間を騙しうる。それは映画が人工的で、統制が非選択を上回るからだと思う。私たち人間がある事物を物理的リアリティと見なしても、それが非選択性の皮を被った人工物であることもあるのだ。―
を見ると、これにも一理あるように思えてなかなか一縄筋ではいかないような気もしてきた。




だけど二年前の私は一つ大事なことを見落としていた。
「映画に自然と文化の対立はなく、人間は物理的リアリティの一部に過ぎない」とも先生は主張していたから、矢張り私の述べるところは間違っている。


結論。
映画も写真も、人間を含む物理的リアリティを救済し、物理的リアリティの一部である人間は撮影・制作過程にあたって介入するに過ぎない。